あいちの注目企業

2023.02.01
「温もりのあるものづくり」で誰かの役に
山本製作所有限会社
代表取締役 田中 倫子
豊川市宿町野川1丁目25

 日本政策金融公庫総合研究所の2019年調査(「中小企業の事業承継に関するインターネット調査」)によると、自社の後継者状況として、後継者が決まっている企業が12.5%であるのに対し、事業継続を考えているものの後継者が決まっていない企業22.0%、自分の代限りと廃業予定の企業52.6%(内、29.0%が後継者難による廃業)と多くの企業が後継者の問題を抱えている。
 電力インフラ向け部品を製造する山本製作所有限会社を経営する父の急逝で急遽跡継ぎとなったのは当時看護師の田中倫子社長。社長業やものづくりは全くの未経験。後継後は電力部品の他、真鍮や銅をはじめとする得意の金属加工技術で自動車向け量産試作品や住宅部品などの分野も開拓。こうした社員7人の会社が、コロナ禍真っ只中の2020年、猫をモチーフにしたオリジナル商品のマスク掛けで大きな話題となった。

「廃業するなら自分の手で」と看護師の娘が跡継ぎに

 1975年、創業者で大学教授でもある、現社長の祖父が「これからもっと電力というインフラは重要になる」と考え、電力インフラに関わる絶縁筒の製造を行う会社として設立。
  絶縁筒は電柱に使われ、一般家庭のブレーカーのような役割を果たしており、これが作動し電気を遮断することで異変の及ぶ範囲を限定的に抑えこみ、停電箇所を最小限にする重要なインフラ部品である。当時は国の基準を満たしていなければならず、その部品の試験には多額を要した。しかし、定期的な交換が義務付けられているため、製造する企業にとっては、参入障壁は非常に高いものの、参入に成功すれば生産できる工場は極めて限定的で、安定的な受注を実現できた。

 祖父の死去の後、父親が跡を継ぐが若くして急逝し廃業の岐路に立たされる。
 「父の子供は娘2人のため後継ぎにはさせないと決めていたようで、工場に呼ばれたこともなく、むしろ寄せ付けようとしなかったように思います。自分の代で終わるか、他人に継がせるつもりでいたようです」と振り返る田中社長。
 「父の死後は、長年会社の屋台骨を支えてくれた父の片腕的存在の技術者が3年後に退職を迎えるので、それまでは続けようと母がやりくりを続けていました。いよいよ、その技術者も退職となると、母から『もう廃業しようと思う』と報告がありました。父が亡くなった事実はわかっていても受け止められていなかったのですが、会社がなくなると聞いて、初めて父はいなくなったのだと実感しました。わき上がってきたのは父に何もしてあげられていなかった、という思いでした。16歳で結婚し、家出同然で家をあとにした経緯もあり孫が生まれても見せにも来ず何もしてあげられなかった。親孝行としてできることは跡を継ぐしか残っていないと考えるようになりました。当時は看護師として人に『ありがとう』と言われることに非常にやりがいを感じており、ドクターヘリなどで救急看護に携わり誰かの役に立ちたいと考え、さらなる勉強をするため大学への入学も決まっていた時期でした。でも『つぶすのだったら取引先もなくなるまで面倒を見て、自分の手でたたんでやろう』と考え跡を継ぐ決心をしました。周りの方はほとんど反対していましたが」。

山積みの問題に立ち向かう素人社長

 2012年、父の跡を継いだ田中倫子社長。ものづくりも経営も全くの初体験。
 「ものづくりの面では、『この鉄材はやわらかい』などと職人さん同士が話しているのを聞いて『この人達どうかしているのでは?』と考えるレベルで、全く会話についていけませんでした。また、毎月取引先から『コストダウンのお願い』がやってきて『何かしょっちゅう来るな』と思いつつ、そのまま受けていました。当然、部材を納品してくれる企業にもしわ寄せが行き、離れてしまったお取引先もありました。私がもう少しいろんなことを知っていればお願いに対して交渉することもでき、迷惑をかけることもなかったと申し訳なく思っています」と引き継ぎ直後のドタバタを振り返る。
 「ただ、父の代ではほぼ一社製造で専用機による内製化されていましたので、発注元の希望するものをそれまで通り作って納品していればよく、日々の生産は職人さん任せでなんとかなっていました」。
 しかし、やがて父についてきてくれていた職人さんが徐々に退職し始め、それでも生産は続けなければならないので、社長自身がメーカーの開催する無料のプログラミング教室へ通い加工技術の習得を始める。
 「プログラミングさえできれば、従来品の加工の再現は可能となるのですが、基本的なことがわからないことだらけで、近所の工場へ教えてもらいに行くこともしばしばでした。父の代では支給材を使い全てが内製化されていましたので、同業者や近所の工場との付き合いもなく、急に若い娘が近所だからという理由だけで教えてくれと訪問しても不審がられるばかりでした。また、当社の中心である真鍮加工のような『色物』を扱う加工はこの地域では少なく大変苦労しました。材料に食い込んで工具が折れたり、スリップして刃もネジも立てられなかったりし、工具メーカーに尋ねてもこうした加工が難しい材料については使い方のアドバイスも得られず、ノウハウの確立をしようとするのですが、工具代もかかる上に材料費も高く気軽に失敗もできませんでした。自分で何とかやれるようになるまで4年かかりました」。

人のつながりから始まる仕事と人材

 いろいろな工場へ足を運ぶことで外部との関係ができ、新たな仕事や人材獲得への道しるべの一つとなった。
 「普通の工場にはいろいろな人がやってくるものなのだ、と知りました。当社は材料支給がされ、加工・納品をしていましたので来社されるのは発注元の企業の方だけでしたので、多くの人の往来があるのにはびっくりしました。訪問先の工場の方から材料商社の方の紹介を受け、当社の材料を買ってくれればこの仕事を紹介できるけど、というお誘いも受け新しい仕事にチャレンジする機会を得ました。ただ多くの場合は、単価が安かったり、受注先を探すのが難しかったりする仕事だったのですが、何とか対応していくと、その繋がりで取引先を徐々に増やしていくことにつながりました」。
 しかし、社長一人のキャパシティにも限界がある。経営面では社長業もこなしていかなければならない。そんな時一人に技術者と出会う。
 「きっかけは『受注を増やしたいのならいい人がいるよ』とご紹介をいただいたのが、大手企業の牧野部長さんでした。受注のお願いをすると『それは仕事を取りに行ってないよね』とかなり厳しいことを言われてしまいました。今にして思えば、自社の強みや得意技術がこうだからこういう仕事をしたい、というのではなく単に何でもいいから受注できないかと『仕事を拾いに来ている』と受け止められたのだと思います。しかし当時はそんなこともわからないので初対面の印象は最悪でしばらく疎遠になっていました」。
 ある時、こんな話を耳にする。実は業界でも知られたエンジニアなのだが、会社が大きくなりすぎ、部長になってお客さんの顔が見えなくなってしまい、もっと現場に近い場所で仕事がしたいと考えており、水面下では社内の部署からのスカウトはもとより、社外からも争奪戦となり高額報酬を提示する企業もあるようだ、しかしなかなか首を縦には振らないらしい…。
 「無理でも一度声をかけてみようと考え、『温もりのあるモノ作り』という会社理念や当社はあなたをこんなにも必要としているということをお話ししました。すると3つの条件を提示されました。1つ目は自分専用の加工機を用意してほしい、2つ目はお客様への納品は自分が直接行かせてほしい、3つ目は働き方を自由にさせてほしい。この条件であれば給料は新入社員並みでいい、とも。そこで、加工機は選んでくれれば何としてでも導入する、納品はあなたの判断に任せ働き方も一切文句は言わない、と約束したところ当社へ来てくれることになったのです」。

 いざ入社するとびっくり。牧野氏が入社したことを聞きつけ「彼にお願いしたい」と指名で仕事が入る。彼が希望した納品や勤務時間など働き方には一切口出ししなかったが納期は必ず守り、納品先では新たな受注を抱えて帰ってきた。
 「牧野は『納品は加工につながる』と考えています。納品で会社を訪問するとその会社が何を大切にして仕事をしているのかがよく分かり、そのポイントを押さえられる。例えば、梱包を大切にする会社への納品梱包は慎重に、加工技術を重視する企業は精度や仕上がり、加工前の打ち合わせなどに時間をかける。また、図面通りにはつくらない、というのも彼のスタイルです。図面を見てそれがその後どう組み付けられていくのかをヒアリングし、こう組み付けられるのであればこの穴の精度はここまでいらないのではないか、などお客様にお話することでコストダウンや短納期のお手伝いをし、さらにこうすればもっといい組付けができるのではという提案もしています。その結果、もともとの発注元である大手企業が図面変更に乗り出すこともありました。仕事を見ていると、お客様の近くで徹底的にお客様のことを知ろうとし、お客様の役に立ちたいと考える技術者だとわかってきました。その域にまで到達していない私とは入社後何年間かは喧嘩が絶えませんでしたが」と笑う。

製造業を軸に新たなチャレンジを

 こうして、現場を任せられる心強い味方を得た田中社長は「社長の仕事」として新たなチャレンジに取り組む。
 現状は自動車のエンジン関連の受注もあるがEV化の流れで影響を受けることが想定され、自分たちも変わっていかなければ取り残されてしまう。そこで、安定性も期待できる食品業界のライン部材の受注に参入しようと考え、そのためにはまずユーザーの業界を知らなければと2017年にかき氷店を始める。

 「人・モノ・金の制限がある中、多額の資金が不要で、時期限定なら自分で手掛けられるのではと考えました。刃物は自社加工でフワフワに削れるような専用刃物を開発、話題となりました。メディアにも取り上げていただき、刃物のオーダーにもつながるなどその宣伝効果も実感しました。氷をホールドする部材には真鍮を使用しました。マシンの多くではステンレスが使用されるのですが、30度を超えると熱を持ち始め金属の熱で氷をどんどん溶かしていってしまいます。これに対して真鍮は熱伝導が小さく氷が溶ける速度が遅い。比較すると1日の営業で1貫目(26cm×13cm×13cm・約3.75kg)の氷の差となって現れることから、聞きつけた業者さんからの真鍮製の部品受注にもつながりました。畑違いなのでやめたほうがという意見もありましたが、製造業としての軸をブラすことは考えていません」。

「仲間を支えたい」。運命のマスク掛け

 2020年に始まるコロナ禍。当社も大きく打撃を受けた。
 看護師として働いたこともある田中社長は、昔の看護師仲間との「マスク不足なので使い捨てのマスクを使いまわしているけど、保管場所に困る」という会話から、当社の加工技術でマスク掛けを提供することで少しでも力になれないかと考えた。
 どうせ作るなら、とデザインを検討していたところ、この頃現れるようになった野良猫をヒントに、しっぽをフックなどにぶら下げ背の部分にマスクをかけられる猫型に決定、素材も殺菌効果があるとされる銅成分を含む真鍮を使用した。真鍮の扱いは手慣れたもので、加工技術を活かしたしっぽの独特の曲げ加工が特徴の「しっぽ使っ手」として発売。
 この製品への思いを「元看護師の町工場女社長が作った『抗菌マスクかけ』限定販売」としてプレスリリースしたところ、すぐに神戸新聞社から問合せがあったのを皮切りにyahooニュースになり電話が鳴り止まない状態に。
 「その後、地元の新聞やテレビなどでも取り上げていただき、2020/6/14、日曜夜の情報番組で「新しい日常を作る町工場物語」として紹介いただいた際には1分で100個売れるなど爆発的な反響となり、生産能力が追いつかずお待たせする事態ともなってしまいました。マスク掛けとしてだけでなく、つり革などで使用するタッチレスツールやカードホルダーとしても利用いただいているようです」。
 第2弾の「しっぽ貸し手」、携帯用の「しっぽ連れてっ手」などのシリーズで、すでに1万3千個の売上実績となった。

よりたくさんの人の役に立ちたい

 「豊橋市のキャンプ用品店様とコラボで弁当箱型飯ごうに入るソロキャンプ用鉄板を作ったのをきっかけとして、真鍮製のキャンプ用品のオーダーもよくいただきます。キャンプ用の焼き鉄板として使うと『経年美化』と呼ばれる真鍮特有の色のくすみが出てVintage風になると話題になりました。これにロゴを入れたり、特注を作ったりなどの個性を出したオーダーも多いですね。当社の『猫シリーズ』もそうですが、SNSフォロワー全員がアンバサダーになっていただけている感覚で、製作物を『こんないいものを手に入れた』とアップロードしていただく機会も多く、それをきっかけとして、その方のお知り合いや同じ趣味の方々から追加注文につながることもしばしばです」とSNSの活用効果に驚く。
 2022年には近隣の創業90年を超える老舗和菓子店の社長に就任、和菓子店経営に乗り出す。さらに2023年には認知症の通所介護や精神疾患者を対象とするB型支援事業にも着手する。SNSで構想をコメントしたところスタッフ希望者が多く現れ、オープン前にすでに看護師や介護士などの人材面でのケアができているとのこと。

 「『多角経営にも程があるのでは』と言われることもありますが、軸をブラしているつもりはありません。あくまでも母体は製造業です。当社をしっかり運営できているからこそ新たなチャレンジにも協力してくれる方々がいるのだと考えています。精神疾患の人が社会とつながり続けられるか、その窓口の一つとして当社が地域に雇用を生んでいければと考えています。地域と継続的なつながりを持ってこそ地域が安定し、その安定した地域で仕事をする当社にもプラスとなるに違いありません」。

 創業時に着手した電力というライフラインに関わる部品製造は今も続く。
 「インフラに関わるいい仕事を祖父や父から引き継いだと感謝しています。実はこの受注、災害があるたびに増加します。つまり、誰かが困っている時に忙しくなるのですが、裏を返せば私達が『困っている人がいるから』と頑張ればそれだけ早く誰かの役に立てるということでもあるのです。当社のような小さな会社が世の中で起こっていることで困っている人を助けられる、役に立てるということを父の仕事を継ぐことで知りました。私が看護で感じていた『やりがいの景色』を祖父も父も感じていたのだ、実はそれぞれに同じ景色を見ている親子だったのだと初めてわかった気がするのです」と田中社長。
 「時が流れても変わらない人の温もりを感じるモノ作り」という経営理念は三代にわたる受け継がれた理念であり、共感した人たちを巻き込みながら続く。